昭和43年5月2日 夜の御理解 (末永信太郎) №43-064
教祖が、一心を立てればすぐにおかげになると仰った。ね、一心を出すということが大事です。一心にならなければ、おかげは受けられない。拝むことにも一心。ね、ということは、もう一心不乱ということ。ね。一心というのは、迷わないということ。ね。二心というように、二つ心じゃない、一つの心。
一心とは、迷いのないことである。同時に、一心とは、一心不乱。いわゆる、一生懸命ということである。だから、拝むことにも一生懸命。ね。本気で改まらせて頂くということにも一生懸命。本気で磨かせて頂こうということにも一生懸命。この一生懸命というかね、その一心ということ。この一心になりませんとね、信心が有り難いものに、楽しいものになって来ない。ね。一心を出さなければ、おかげにならんです。
ですから、まあ、一番はじめ信心をはじめるなら、まず、拝むことから、一心。ね。そして、金光様の御信心は拝むことが信心じゃない。教えをよく頂いて、自分が改まって行くということが分かって来る。だから、今度は改まるということにも一生懸命。ね。同時に、いよいよ磨かせて頂くことによって、限りなく自分で自分の心が拝まれるようになって来る。そういう信心の喜びというのが有り難い。
今あの、御祈念にかかる前に、善導寺の久保山さんが御神眼を頂いて、神様にお知らせを頂いておられるのが、ね、この川の堤防にいっぱいこの、野菜の茗荷がね、植わっておるところを頂かれた。茗荷というお野菜という意味じゃなくて、茗荷ということは、この喜びの妙だと、こう思う。ね。
これは、喜びの妙というのは、信心を頂かなかなければ頂けまい。ね。しかも、本気で磨き、本気で改まるというように、本当に自分で自分の心が拝めれるようになるということが、妙癌なんです。その茗荷の心が出て来ないと、この川というのはお徳の流れということである。ね。
天地を貫くこのお徳の流れ。そのお徳に降れることが出来ないと、茗荷を目指さなければ。ね。これは、まあ、信心の一番の眼目になるところ。けれども、なら、初めての人、初心の人に、さあ、信心の喜びを頂けといったって、なかなか難しい。まあ、とにかく痛ければ、痛いところを直してもらいたい。困っておれば、困っておる難儀なところから救うて頂きたいというだけで参って来るのであるから。
だから、それならそれでも良いから、一先ず一心になれ、お願いすることに一心になれ、御祈念をすることに一心になれ。ね。しかもそれは、一心不乱でなかにゃん。不乱ということは、乱さない、乱れない、迷わないということである。ね。あそこにも頼み、ここにも願い、これでは一心にならない。
もう、此方一心と定めい、と。そこで、おかげというのは、だから信心が出けておるとか、出けていないとか、もう年限が経っておるとか経ってないとかではなくても、初心の者でもおかげが受けられることが分かる。神様一心、金光様一心にすがる。ね、
と言うて、なら、そのことが信心、それでお終いということではない。ね。次には、いわゆる改まらせてもらうことに一心になる。改まらせて頂くことの一心、磨かせて頂くことの一心。ね。そこに、限りなく美しゅうならせて頂くという、そのところから生まれて来る信心の喜び。これは、もう説明も出けなければ、人にも話すことも出けない。ね。もう本当に、信心の喜び。いわゆる、われとわが心が拝めれる。
ね、最近言われておるところの自らの心へ帰依するというのは、自分の心の中に拝めれるものがなからなきゃ帰依は出けない。自分の浅ましい心を見ておって、その浅ましい心に帰依が出来るはずがない。ね。自分で自分ながら、良うもこんなに変われたもんじゃ。良うこんなに変わられたもんじゃと自分で思うようなその心に、自分自身が帰依をする。信心の眼目がここにある。ね。
と言うて、そういうところでなからなければ、おかげが受けられんというのではなくて、一生懸命に参って来る、一生懸命に拝む、一生懸命に願う、頼む。ね。そこに、いかに一生懸命のようであっても、二心であったり、三心であったりしたんじゃおかげにならん。何々様にも拝む、何々様も頼む。これではおかげにならん。ね。金光様一心におすがりをする。その一心が立つと、おかげになる。ね。
だから、その一心というのも、ね、その信心の過程、信心の程度に応じて、一心が違うということが分かるけれども、一心を出せばおかげが受けられる。ね。
そして、信心の徳を受けて行くというような、高度な信心になって行かにゃいかん。いわゆる、われとわが心が拝まれるようになって行くけいこをさせてもらわなきゃいけん。今日、夕方でした。テレビを見よったら、何ですかね、あれはあの、世界の国々から、こう変わったことをする芸の持ち主達が集まってする何かがありましょうが。あん中にあの、日本の世田谷とか言ってました、東京の人。
あの、十歳ぐらいな少年がね、今日のそれに出てました。もう、世界全国の有名な人のですね、歴史上にでも残るといったような人の名前だけではなくてですね、もう、いつの頃に、いつの年に生まれた人で、どういうことをした人ということをみんな暗記してるちゅう。それはもう、こんな厚い、その、そういう有名な人の、まあ、辞典のようなものがあるんです。
その中からよってから、まあ、西洋の誰彼。私どもは全然知らないような人の名前をこう読むと、それは、西暦何年の生まれでどういうことをした人だと言うて、言うんですよ。だから、この、あそこはアナウンスをしておる人と二人ではこう、桜を使ってるようにあるから、観衆の中からと言うてから、その、参考書何十冊かですね、こう配って。して、その中を開かせて、その銘々に、その、何とかね、何とかバンサーはいつの時代の人かとかですね。色々、そのされておる。それを、もう的確に、もう答えるんですよ。ね。
で、お母さんも一緒に出て来てありましたら、いつ、こう、どうしてこうして勉強したかち言う。それが、親も知らん間に勉強した。寝る時にですね、そういう、その、辞書を見て読むのを楽しみである。だから、覚えようとも思ってない。こういう、その、まあ言うなら緻密なささえなことまでもね、しかもその年代のことなんかですね、何年どこの国で生まれ、どういうことをした人といったようなことをですね、説明するんですよ。それで、その、聞いてました。ね。どういう風にして、この、覚えたかて。
だから、覚えようと思うても覚えられないちゅうんです。ね。楽しく、それがその、読めるということがね、まあ、言うなら覚えるコツだといったようなことを言うておったが、確かにそうです。好きこそ物の上手なれ。もう、皆さんはご承知のように、私は皆さんとお話をしよって、もう、そのことが忘れてしまってるです。というぐらいに、最近は頭が、もう、本当に駄目になってしまっておる。
けれども、好きな信心のことなら、私はもう、どげなこっでん、すぐ覚えるです。これはもう、自分ながら不思議です。もう、一時間ぐらいなお説教なら、もう、そのまま私は話します。そのお説教が、はあ、素晴らしいなあ、覚えとかんならんなと思うたが最後ですね、もう、有り難うして有り難うして頂きよるから、ちゃんと頭の中にですね、テープレコーダーのように、はっきり私は覚えとるです。
もう、ジェスチャーまで覚えとるです。本当です。ええ。私は、それは好きだからなんです、やはり。ね。例えばですね、天津祝詞とか大払いなんかをですね、とても二日も三日もかかるっちゃ私どんに言わすとおかしかごたるです。あの、今、毎朝参って来なさる最後に、(千代田)さんという方が参って来ますがね、あの人がこん信心はじめにはね、もう、天津祝詞は一晩で覚えた。大払いなんかはですね、もう、ご飯炊き炊き、とにかく、三日ぐらいかかられたら、もう、覚えてしまわれた。ご飯炊き炊き覚えたちゅう。もちろん、信心が好きですこの方は。ね。だから、一心ということは、そういうことにも通ずると思うですね。
だから、信心が好きにならにゃいかん。一心になりゃ、他のことは覚えんばってん、神様ごとだけなら覚える、そういう人がやっぱあります。だから、信心が好きになるために、まず、なら楽しゅうなるために、いっちょ本気で一生懸命に拝んでみにゃいかん。拝むことの楽しみ、拝むことの喜び、それが神様に通うのである、しかも一心。(なんみょうほうれんげきょう)を言うて拝んだり、(高まつはらにど)拝んだら、こげなこっじゃ、もう絶対おかげは受けられん。此方一心と定めいと仰る。ね。
一心を出さなければ、おかげは受けられん。それは、信心の程度が低かろうが高かろうが、初めての人であろうが、此方一心と定めて、いわゆる、一生懸命になりゃおかげが受けられるという道なの、おかげは。ね。けれども、なら、拝むことだけが一心じゃない。段々、教えを頂くことにも一心になる、改まることにも一心、本気で磨かせても頂こう、限りなく自分自身が美しゅうならせてもろうて、ね、われとわが心が拝まれるようになることの喜び。いわゆる、茗荷である。
ね、そういう喜びの茗荷が心の中に頂けるようになると、それがそのまま、天地のお徳に触れて行くことが出けるような広大なおかげにまでなって来る。ね。信心させて頂いて、ね、一心に拝むこと、一心に改まること、一心に磨くこと(・・・・・・・・・・・・・・・・テープが切れる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)すぐにおかげが受けられると仰っておられますからね、お互いが拝むことも拝みよるけれども、改まることも改まろうと思いよるけれど、磨くことも磨こうと思いよるけれども、それが何とはなしに中途半端。
これじゃ一心じゃないから、いつまで経ってもおかげが受けられん。ね。一心を出せば、すぐにおかげが受けられると仰る。どうでも一つ、一心をね、出させてもらうおかげを頂いて、そのおかげを受けなきゃいけませんですね。どうぞ。